「癒しごはん」 三上貴代さん(4南3)
私は疲れた時や大きい仕事を終えた時、無性に筋子ごはんが食べたくなる。思い返してみると一人暮らしを始めた頃からのような気がする。
なぜ筋子ごはんなのかを考えてみると、小学生の頃の思い出に辿り着いた。常日頃から多忙な父と母だったので、家族全員でどこかへ出かけるということはまずなかった。それでも年に一回は家族で出かけられるチャンスがあった。それが年越し準備の買い出しである。大勢の人々でごった返すスーパーで、迷子にならないように何とかついて歩きまわった覚えがある。聞き慣れない喧噪が新年への期待を更に大きくさせていたことも覚えている。そこで買っていたのが筋子だった。いくらの醤油漬けだったかもしれないが、筋子ごはんを無性に食べたくなり始めた頃の私には、筋子の方がお財布には優しかったはずで、記憶がうまいこと書き換えられているのかもしれない。しかし、そこはあえて気にしないでおこうと思う。
大晦日には買い出しの他にも、家族総出でお餅をついたり、蕎麦を打ったりもしていた。しかし、なぜ筋子ごはんなのか。そこはやはり食べ慣れたお米の存在なのだろう。
私にとっての筋子ごはんは癒しごはんと言える。当麻には、おいしいお米も野菜もある。うちの三人の息子達も当麻産のもので体ができていると言っても過言ではない。息子達の癒しごはんはどんなものになるのだろう。彼らにとって何が印象深い思い出となるのか。きっと私が想像もしていない出来事になる気はするが、それもまた将来の楽しみにしたいと思う。
(2018年新春号・広報とうま掲載文より・第127回エッセー)
なぜ筋子ごはんなのかを考えてみると、小学生の頃の思い出に辿り着いた。常日頃から多忙な父と母だったので、家族全員でどこかへ出かけるということはまずなかった。それでも年に一回は家族で出かけられるチャンスがあった。それが年越し準備の買い出しである。大勢の人々でごった返すスーパーで、迷子にならないように何とかついて歩きまわった覚えがある。聞き慣れない喧噪が新年への期待を更に大きくさせていたことも覚えている。そこで買っていたのが筋子だった。いくらの醤油漬けだったかもしれないが、筋子ごはんを無性に食べたくなり始めた頃の私には、筋子の方がお財布には優しかったはずで、記憶がうまいこと書き換えられているのかもしれない。しかし、そこはあえて気にしないでおこうと思う。
大晦日には買い出しの他にも、家族総出でお餅をついたり、蕎麦を打ったりもしていた。しかし、なぜ筋子ごはんなのか。そこはやはり食べ慣れたお米の存在なのだろう。
私にとっての筋子ごはんは癒しごはんと言える。当麻には、おいしいお米も野菜もある。うちの三人の息子達も当麻産のもので体ができていると言っても過言ではない。息子達の癒しごはんはどんなものになるのだろう。彼らにとって何が印象深い思い出となるのか。きっと私が想像もしていない出来事になる気はするが、それもまた将来の楽しみにしたいと思う。
(2018年新春号・広報とうま掲載文より・第127回エッセー)