「心さわぐ季節」 梁川 勝利さん (5東4)
まだ残雪がある4月、チオドノクサ、フクジュソウからクリスマスローズ、水仙、チューリップと花たちのプレゼントが次々我が家に届く。
白鳥が北へ旅立ち、大雪の山々がくっきりと青空に聳える5月、米どころ当麻では、そこかしこに田起しの音が響きわたる。そして青めるヤナギが、うららかな時の到来を告げ、上げ雲雀のさえずりが聞こえる。毎年繰り返す季節巡りながら、胸のときめきは抑えられない。
桜が散る頃にはヨモギやコゴミ、フキなどが道端にも現れ、山菜取りの季節がやってきて、わが庭でもタランボに続きウドも楽しむことになる。
この季節、朝の空気が肌に触れる爽快さを何にたとえよう。お蔭で畑や庭作業が進む。小鳥のさえずりは言うまでもなく、時折、藪の中から不慣れな鶯の声が届く。カッコウが落葉松の梢で、尾を上下させながら縄張りを主張する。それが安眠を妨げるのだが、それでも種をまく時季を運んできたかのような親しみが湧く不思議さ、今年も間もなく使者はやってくるに違いない。
三反ほどのキッチンガーデンと庭づくりに汗を流していると、今度はミズナラの梢でカラスが、今年も子育ての準備で神経をとがらせている。キツネが現れると低空飛行をして、必ずけたたましく威嚇する。そんなに騒がなくてもよいのにと思うが、子育てには特段の気を使うのが常のようだ。世代が変わったのか、別家族なのかは分からないが、居住以来、24年続く春の光景だ。
一仕事を終えて、仕込んだばかりの自家製フキ味噌を朝ご飯にのせると、春の香りが広がり、畑仕事の疲れも消えて次の作業にかかれることが嬉しい。
緑が大地を包みはじめるこの季節は、我が誕生月の遺伝子がさわぎ、汗を流すのが日課だが、時おり階段を下り、妻がお茶を運んでくれる嬉しさにも浸りながら、今年も三反のキャンバスに思い通りの絵を描くのに絵筆を何本も動かしている。
(2014年5月号・広報とうま掲載文より・第87回エッセー)
白鳥が北へ旅立ち、大雪の山々がくっきりと青空に聳える5月、米どころ当麻では、そこかしこに田起しの音が響きわたる。そして青めるヤナギが、うららかな時の到来を告げ、上げ雲雀のさえずりが聞こえる。毎年繰り返す季節巡りながら、胸のときめきは抑えられない。
桜が散る頃にはヨモギやコゴミ、フキなどが道端にも現れ、山菜取りの季節がやってきて、わが庭でもタランボに続きウドも楽しむことになる。
この季節、朝の空気が肌に触れる爽快さを何にたとえよう。お蔭で畑や庭作業が進む。小鳥のさえずりは言うまでもなく、時折、藪の中から不慣れな鶯の声が届く。カッコウが落葉松の梢で、尾を上下させながら縄張りを主張する。それが安眠を妨げるのだが、それでも種をまく時季を運んできたかのような親しみが湧く不思議さ、今年も間もなく使者はやってくるに違いない。
三反ほどのキッチンガーデンと庭づくりに汗を流していると、今度はミズナラの梢でカラスが、今年も子育ての準備で神経をとがらせている。キツネが現れると低空飛行をして、必ずけたたましく威嚇する。そんなに騒がなくてもよいのにと思うが、子育てには特段の気を使うのが常のようだ。世代が変わったのか、別家族なのかは分からないが、居住以来、24年続く春の光景だ。
一仕事を終えて、仕込んだばかりの自家製フキ味噌を朝ご飯にのせると、春の香りが広がり、畑仕事の疲れも消えて次の作業にかかれることが嬉しい。
緑が大地を包みはじめるこの季節は、我が誕生月の遺伝子がさわぎ、汗を流すのが日課だが、時おり階段を下り、妻がお茶を運んでくれる嬉しさにも浸りながら、今年も三反のキャンバスに思い通りの絵を描くのに絵筆を何本も動かしている。
(2014年5月号・広報とうま掲載文より・第87回エッセー)