「屯田の米つくり」 楢崎 和裕さん(3東3)
私が郷土資料館に勤めているなかで屯田兵の曾孫の方が来館され、当時の状況を調べてほしいと依頼され、その調査のなかで、屯田時代の米づくりを知ることができました。
米は屯田の奨励作物でなく禁止されていたが、明治26年に河合源蔵という人が、中央6区を流れている清水川沿の2アールほどの湿地に籾を蒔いたのが当麻の水稲の始まりと言われています。この年は茎葉のみでしたが、これにこりずに試作を続けて3年後の明治28年には反収100kgほどの収量をあげることができたのです。
これによって回りの人たちは窪地、沢水を利用して稲づくりを始め、各戸20~30アールの水田を造りました。当時の造田は人手で、高い所から「モッコ」で土を運び低い所へ、大勢の人が必要であり、また厚い鉄板でできた「ズリ」を馬に引かせて土を運び土地を平らに均して畦をつけて水田にするのですが、人夫賃が1日20銭(米60kg4円)で、苦しい生活の中から造田費を支払うのは容易なことでなかっただろうと想像されます。
銀行も農協もない時代です。造田の資金は村内、あるいは知人の金持ちから、土地を担保に借入したのでしょうか。
水田面積 明治28年 9・1ha 明治32年 260ha この様に急激に水田が増えています。
こうして苦労を重ねてきた水田も明治31年8月と9月の豪雨により大きな被害を受け、さらに負債が増えやむなく土地を売った人がいたようです。
大型の美田と、12年連続全道一となった今日、先人たちの大変な苦労と大いなる努力を忘れることなく次の時代に伝えていきたいと思います。
(2011年6月号・広報とうま掲載文より・第55回エッセー)
米は屯田の奨励作物でなく禁止されていたが、明治26年に河合源蔵という人が、中央6区を流れている清水川沿の2アールほどの湿地に籾を蒔いたのが当麻の水稲の始まりと言われています。この年は茎葉のみでしたが、これにこりずに試作を続けて3年後の明治28年には反収100kgほどの収量をあげることができたのです。
これによって回りの人たちは窪地、沢水を利用して稲づくりを始め、各戸20~30アールの水田を造りました。当時の造田は人手で、高い所から「モッコ」で土を運び低い所へ、大勢の人が必要であり、また厚い鉄板でできた「ズリ」を馬に引かせて土を運び土地を平らに均して畦をつけて水田にするのですが、人夫賃が1日20銭(米60kg4円)で、苦しい生活の中から造田費を支払うのは容易なことでなかっただろうと想像されます。
銀行も農協もない時代です。造田の資金は村内、あるいは知人の金持ちから、土地を担保に借入したのでしょうか。
水田面積 明治28年 9・1ha 明治32年 260ha この様に急激に水田が増えています。
こうして苦労を重ねてきた水田も明治31年8月と9月の豪雨により大きな被害を受け、さらに負債が増えやむなく土地を売った人がいたようです。
大型の美田と、12年連続全道一となった今日、先人たちの大変な苦労と大いなる努力を忘れることなく次の時代に伝えていきたいと思います。
(2011年6月号・広報とうま掲載文より・第55回エッセー)