「昭和二十年の七月」土屋龍雄さん(宇1)

私は、小学校一年生でした。東京が大空襲を受け、焼け野原になった。室蘭が艦砲射撃を受けた。釧路が空襲を受けたと大人達の間で囁かれ、戦火が身近にせまってきているのが、子どもながらに感じていました。
私の家は、今の旭川市の東光にある変電所の社宅でした。当時は変電所の社宅八戸と道路を挟んで、地主さんの屋敷と小作の人の家三戸で部落をつくり、周りは、水田と畑に取り囲まれていました。家の縁側の向こうには、変電所の施設が立ちならび、ブンブン音の聞こえる所でした。空襲を受けたら攻撃の対象になるところに私の家はあったのです。
この頃は、働き手が戦場に行ってしまい生産力がどんどん落ち始め、食料不足が深刻化していました。じゃがいも、カボチャ、大根の葉などを刻んで、わずかに配給になった米と混ぜて雑炊にして食べるようになっていました。白いご飯は、一番のご馳走でした。
旭川にも空襲が近いと囁かれ、母は白いご飯を食べさせてやりたいと、朝早く起きて、ご飯をたき始めた時、空襲警報が鳴りひびきました。「清、和子弟達を連れて逃げなさい。」と母が叫んだ。私達五人は、社宅の共同防空壕に逃げ込んだ。米軍のグラマンがパルプや工場を攻撃している中、母は白いおにぎりを鍋に入れて防空壕にとびこんできました。
白いおにぎりを手渡す母の手のひらが真っ赤でした。白いおにぎりをほおばる子どもたちを見つめる母の優しい顔と真っ赤な手のひらを今も忘れることが出来ません。
こんな思いを二度と子ども達や孫達にさせてはならないと三十八年間社会科の教師として平和の大切さを教えてきました。
 
(2017年6月号・広報とうま掲載文より・第121回エッセー)